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沖縄県・竹富島

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真新しい石垣と白砂の道にまぶしい南国の太陽が照りつける。
「うつぐみ」の島に、今、リゾートがつくられた理由は何だったのか。

富島の人は、竹富のことを「テードゥン」とか「タキドゥン」と呼ぶ。islandの意味でなく、この島の村落社会全体のことをそう呼ぶのである。竹富島には地方自治体の役場も警察署もないのだが、「竹富公民館」という自治組織が村落の運営にあたっている。沖縄でいう「公民館」とは、建物のことだけを意味するわけではない。竹富島に限らず、沖縄には戦前から地域によって多様な自治組織が存在しており、戦後になって設置された「公民館」はその発展形といえる。

竹富公民館は、祭事行事の運営だけでなく、財政のこと、まち並みの保全や観光事業にかかわること、島民の権利や安全にかかわる一切、そのほか島のすべての活動を執り行い、島にとって重要なことは、ときに県や国に対しても進言する。島人351人(2012年10月30日現在)の代表で、事実上の最高責任者と言えるのが公民館長で、任期は1年。3つの集落が持ち回りで候補者を出し、毎年3月31日に島人全員参加の公民館総会で承認され、任命される。公民館長の仕事量は大変なもので、一年365日休みなしだという。

その公民館長を、2010年から2期連続して務めたのが上勢頭芳徳(うえせど・よしのり)さんだ。現在は、義父の亨(とおる)氏が設立した島の民芸品展示施設「喜宝院(きほういん) 蒐集館(しゅうしゅうかん)」の館長を務めている。「この小さな島でみんなが幸せに生きていくには、住民が一丸となって、島にとって大切なことは何なのかをつねに見きわめながら行動していかなければなりません。そのために、私たちの基本精神となっているのが、“かしくさや うつぐみ どぅ まさる”という言葉です。約500年前に八重山を治めた、竹富島出身の西塘(にしとう)という人が残した言葉で、“みんなで一致して協力することこそ優れて賢いことだ”という意味になります。“うつぐみ”は“協同一致の精神”。“ぐみ”には“腕を組む”とか“心を組む”という意味合いがあり、“うつ”がそれを強調しています。みんなで一致団結して祭りを執り行うことも、日々の努力で伝統的なまち並みや美しい自然を守っていくことも、すべてこの“うつぐみ”の心に基づいて行われているのです」

竹富島には10世紀前後から人が住み始め、もとは6つの集落があったといわれるが、琉球王府の支配や島内の勢力争いといったさまざまな出来事を経て、「玻座間(ハザマ)」と「仲筋(ナージ)」の2集落に統合されていった。現在は、「玻座間」が「西(インノタ)」と「東(アイノタ)」に分かれ、全部で3つの集落が島の中央部に存在している。

かつては島人のほとんどが農民で、ときに干ばつ、ときに台風の影響を受けながらも、珊瑚礁に守られているおかげで比較的穏やかな土地を耕しながら生きてきた。一方で、1903年(明治36)まで、宮古・八重山の人々を実に260年以上も苦しめた人頭税は、竹富島でも数々の悲劇を引き起こしたといわれる。ただ、沖縄本島から600キロ近くも離れている竹富島が、第二次大戦で米軍の上陸を免れたのは幸いだった。

戦後、もっとも大きな変化が訪れたのは、沖縄の「本土復帰」を目前にした70・71年(昭和45・46)。深刻な干ばつが立て続けに起こり、そのうえ台風の風害を受けて、農地や牧草地の大半が壊滅的な損害を被ったのである。珊瑚礁が隆起してできた竹富島には、作物を養うための土も水も、もともと十分ではない。

これが、島の行く末を決定づけた。島外の開発業者による土地の買い占めが本格化したのである。人々が失った土地は、最大で島全体の3分の1とも4分の1ともいわれ、複数の外部企業がリゾート開発を画策し始めた。それに対して、島内では買い占め反対運動が起こった。その動きの中から醸成されていったのが、「町並み保存運動」であり、86年(昭和61)に制定された「竹富島憲章」である。竹富島を外部資本から守ろうとする動きには、島外の文化人や有識者も多数賛同し、長野県木曽の妻籠宿(つまごじゅく)の成功例を目標に据えて、重要伝統的建物群保存地区選定に向けての行政へのはたらきかけや、憲章の草案づくりが行われたといわれている。

「われわれ竹富人は、無節操な開発、破壊が人の心までをも蹂躙(じゅうりん)することを憂い、これを防止してきたが、美しい島、誇るべきふるさとを活力あるものとして後世へと引き継いでいくためにも、あらためて〈かしくさや うつぐみどぅ まさる〉の心で島を生かす方策を講じなければならない」。竹富島憲章の前文にはこう記されている。そして、保全優先の基本理念として、「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」という5原則を定め、さらに、これらを守るための具体的方策として諸々の細則が連ねられた。

「売らない」は島の土地や家などを売ったり貸したりしないこと。
「汚さない」は海や浜辺や集落を汚さない、汚させないこと。
「乱さない」は島内の美観を損ねないこと、島の風紀を乱させないこと。
「壊さない」は家や景観、自然を壊さないこと、壊させないこと。
「生かす」は祭事行事を精神的支柱とし、これを生かして島の振興を図ること。

この憲章は、86年3月31日の公民館総会で満場一致で承認された。みんなでつくった憲章は、法的な拘束力はないが、島人の結束を高め、何よりも、美しい島を守ることで人が増えた。故郷へ戻ってくる人、島へ移住してくる人が増え、島の人口は、基本的には現在も増加傾向にある。また、観光客数は、ほかの離島とくらべても右肩上がりに増えている。農民たちは民宿を始め、食事処や観光バス会社やレンタサイクル店などを営み、農業に代わる収入を観光から得る生活が完全に定着していった。失った土地を買い戻す動きも出て、外部資本によるリゾート開発計画はどれも頓挫し、エビ養殖のように、島人が自ら新しく事業を興し、雇用を生むという理想的な流れも生まれた。

ところが、バブル崩壊後、島人が自ら買い戻したはずの土地を再び失いかねない事態が生じた。それが、現在「星のや 竹富島」がある場所を含む東海岸側の土地である。