和歌山県東牟婁郡那智勝浦町
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新鮮な魚やサーフィン、釣り……、
勝浦の海を楽しみ尽くす暮らし。
水揚げされたばかりの脂がたっぷりのった「トンボ」を
その場で解体して、切り身を豪快に盛りつけた。
新鮮なかつおの刺身とともに机に並べて、
仕事終わりのビールで一杯……と言っても、午前11時半だ。
早朝から漁港で働く仲買人たちの仕事は、
入札するための魚が少なければ早く終わり、多ければ遅くまでかかる。
「僕がこの仕事をやりだした14年くらい前は
大体もっと遅くまでかかって、
一番遅い時だと21時くらいまでやっていた。
それだけ年々、水揚げ量が減っていることはやっぱり気になりますね」
と話すのは、仲卸「中定商店」の若き代表、中 孝文さん。
毎日、仕事が終わると事務所で仕事仲間とともに卓を囲んで食事する。
事務所とはいえ、中さんの子供たちや家族も混じって談笑する、
賑やかでリラックスした宴席だ。
勝浦の仲卸業者のほとんどが代々続く世襲であり、
中さんも祖父の代は仲卸だったというが、
父が旅館経営の道へ進んだため、いったんはその歴史は途切れていた。
つまり中さんは「初代」の仲卸業者ということになる。
そもそも「仲卸になろうとは思っていなかった」という中さんが
この世界に入ったきっかけは、
父の旅館の仕事を手伝っていた10代の頃に遡る。
「旅館の仕事が自分にはあまり合わなかったんですよね。
ある時、酔っ払ったお客さんが暴れているのを止めようとして
お客さんに殴られたことがあって。揉み合っているうちに、
そのお客さんのTシャツが破れてしまった。
そうしたら親父に“お前が悪い”と叱られて。
僕も若かったから、嫌になってやめてしまったんです。
そんな時に、旅館の魚の仕入れを担当していた番頭さんが
突然いなくなってしまったんですね。
それで、父から“お前がやれ”と言われて、
しかたなく」市場で魚の仕入れをすることになった。
新宮市でバーテンダーをやりながら、
アルバイト的に始めた仕事だったが、
やり始めると、だんだんとその面白さに魅せられていった。
「最初は札の掛け方も知らないし、
なんにも分からなかったですからね。
相当授業料を払いましたよ。ただ、どこか性に合ったんですよね。
小さな頃からまぐろが大好きだったというのもあるんでしょう。
やっぱり“好きこそものの上手なれ”なんですかね」
仲卸の会社を立ち上げ、
中さんが「人生の師匠」と呼ぶパートナーも得て、
数名のスタッフを抱えるようになった。
結婚をして、子供も生まれた。気がついたら、
いつの間にかまぐろが生活の基盤になっていた。
「もちろん魚が売れた時が一番面白いんですけど、
ずっと魚を見ていると、だんだん自分なりの魚の見方というか、
こだわりが出てくるんですよね。こればかりは感性なので、
教えてもらって身につくものではないんです。でも商売ですから、
お客さんのこだわりにも合わせていかなければいけない。
徐々にお客さんの求めている魚が分かってきたらまた面白い。
お客さんから“中がいいという魚なら買ってくれ”と、
大きい金額を任せてもらえるというのはやっぱり嬉しいですよ。
責任は重いですけど、やりがいがありますね」
食事を終えた午後は、波が立つ時はサーフィン、
波がない時は自家用船で沖へ出て釣りを楽しむのが日課。
小さな頃から勝浦の海に親しんできた中さんにとって
海は最高の遊び場なのだ。
「子供の頃は、3月の寒い時期から裸になって
思い切り遊んでいましたね。ここらは水が綺麗で、
魚が肉眼で見えますから。アワビや伊勢海老捕りをよくやりました。
今だとダメなんでしょうけど、当時はまだ数も多くて、
子供のやることだからと許してもらえたんでしょうね」
サーフィンはこの仕事を始めた同時期にやり始めた。
会社のスタッフはサーフィン仲間でもあるという。
「勝浦の近くには日本一大きな波が来るポイントもあって、
最高のサーフスポットなんですよ。
アクセスがよくないせいもあって混み合わないし、
本当に気持ちよく波乗りができる」と中さん。
路地の一本一本、海の隅々まで知り尽くしたまちで、
信頼出来る地元の仲間たちと働き、遊ぶ。
その生活の根底にある気持ちは、
暗くなるまで友人たちと磯で遊んだ子供時代と何ら変わらない。
最高のまぐろと最高の海、最高の仕事、最高の仲間。
これ以上の贅沢があるだろうか。