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和歌山県東牟婁郡那智勝浦町

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2 History Teller まちの歴史を紡ぐ人。

立木吉也さん

勝浦がもっとも栄えた昭和の時代の、
漁業文化を活用したまちづくり。

ぐろとともに豊富な温泉の町として知られる那智勝浦は、
年間約50万人の人々が訪れる観光地でもある。
この地でよく知られる二軒の大型ホテルの送迎船と
観光船が停泊する桟橋に近い、
「脇入」「仲ノ町」地区(通称「脇仲地区」)に
かつてあった八百屋の空き店舗を借り受け、
「入船館」がオープンしたのは5年ほど前のこと。
「漁業のまち」勝浦の歴史や文化を伝える無料休憩所として
この場所の開設を提案したのは、同町のまちづくり住民団体
「よみがえれ脇仲倶楽部」の立木吉也さん。
昭和10年生まれ、バイタリティあふれる77歳だ。
「この辺りはかつては『銀座通り』と呼ばれ、
多くの飲食店で賑わっていたエリア。
現在よりさらに活気があった勝浦地域のまぐろ漁の様子が
感じられるサービスステーションになれば」
と、館内には古い漁具や鮮やかな大漁旗、
大正時代〜昭和20年代頃までの貴重な写真を展示している。

自身もこの地区に住む立木さんは
勝浦で長らくまぐろ漁の網元(漁網や漁船を所有する漁業経営者)
として働いていたが、その経歴は少々ユニークだ。
地元の高校を出てから東京の大学へと進学、
卒業後はテレビ局に就職し、音響技師として4年間働いた。
故郷に戻ったのは昭和36年のこと。
「当時、水産庁がまぐろ漁船の建造を奨励するようになって、
金融公庫からお金が容易に借りられるようになり、
まぐろ漁船がうんと増えて一気に活気づいたんだね。
僕もそれに惹かれて、地元に帰って漁業をやることにしたんだ」

勝浦の漁業の歴史は古い。明治時代にはさんま漁が中心だったが
大正初期からかつお・まぐろ漁が盛んになり、
立木さんが生まれた昭和初期頃にはすでにまぐろが主体となって、
「僕が中学生になる頃には相当な水揚げ量があった」という。
漁港も整備され、昭和32年に現在の魚市場が建設された頃には、
勝浦は西日本における一大漁港として栄えていた。
「当時の網元はすごく儲かっていたから、みんな羽振りが良くてね。
漁船の乗組員たちに、『支度金』として
報酬を前払いする習慣があったくらいだよ。
当時でひとりあたり30万円くらい渡すこともあったね。
それで、みんなそのお金を出航するまでに
全部遊んで使っちゃうんだ。だから飲食店なんかも
すごく潤っていてね。毎日、出港の際には女性たちが港に集まって、
軍艦マーチが鳴り響いていたもんだよ」

昭和の時代を通じて盛り上がった勝浦のまぐろ漁に
「陰り」が見えてきたのは昭和の終わり頃。
円高による価格の低下や燃油の高騰、
まぐろの資源が枯渇し漁が遠洋化したことによる高コスト化などで、
次第に漁業者の資金繰りは厳しくなっていったという。
「まちに昔のような活気がなくなって、
就業者の高齢化や後継者不足など、いろいろな問題が出てきたんだね」
まぐろ漁が産業として収縮するとともに、
勝浦でも紀伊半島の多くのまちと同じく
過疎の問題に直面するようになった。同時に、
観光客の移動手段が鉄道からバスや自家用車へと変化するにつれて、
紀伊勝浦駅を中心とした市街地の空洞化も年々進んだ。
そういった状況の中で、勝浦の豊かな歴史や文化といった
地域資源を改めて見直し、まちの活性化につなげようと、
立木さんたちが数年前から取り組んでいることのひとつが、
かつてまぐろの延縄漁で使用されていた
ガラス製の浮き球「ビン玉」を再利用するプロジェクトだ。
現在ではプラスチック製が主流となり、
その役割を終えたこの漁具を、
那智勝浦町の広報誌などを通じて寄贈を募り収集、
それらを近隣の家や店舗に配布した。
それらを軒先に吊したり軒下に置いてもらい、
毎週土曜日の夕暮れには
穴を開けたビン玉の中にローソクやLEDライトを入れて
灯りを灯すライトアップを行なっている。
透き通った丸いガラスの中で淡い光を放つ「ビン玉行灯」が
昔ながらのまち並みを照らす様子は漁師まちらしい風情に溢れ、
なかなかに味わい深いもの。
「入船館」では元漁師の指導による
ビン玉の縄編み体験なども行なっており(予約制)、かつて
まぐろ漁が大きく栄えた時代の漁業文化の継承に役立てている。

地域活性化については「まだまだこれから」と、
エネルギッシュに話す立木さん。
勝浦の漁業の歴史をまとめた郷土史の執筆も行なっている。
「やっぱりまぐろがたくさん獲れたから、
自分も学校に行かせてもらえたんだからね。
自分はまぐろ漁で借財もしたけど、
振り返ってみれば本当に楽しかった。
だから僕は東京から戻ったことに未練はなかったし、
今も後悔はまったくしていないんだ。自分でも不思議なくらいにね」