menu

神奈川県横浜市寿町

 24

|97

2 About Kotobuki 寿町ってどんなとこ?

活気ある労働者のまちが、みんなの知らぬ間に、
寄る辺なき高齢者のまちになっていた。

「寿に初めて来たのは2010年の春。
それまでは寿のことは何も知らなかった」

寿町地区は、東京・山谷、大阪・釜ヶ崎とならぶ
「日本三大寄せ場」のひとつとされ、1950年代半ばから
日雇い労働者のまちとして知られてきたエリアである。
70年代初頭までは、横浜の港湾労働者やその家族が住む
にぎやかなまちだったといわれている。
しかし、現在の寿町で、ドヤで暮らしながら
日雇い労働で生計を立てる労働者の姿はめったに見かけない。
にもかかわらず、面積わずか0.06km²ほどのところに
今も120軒以上のドヤがあり、約6500人が暮らしているという。
彼らの約8割が生活保護受給者。そして、65歳以上の高齢者である。

横浜中華街や横浜スタジアムから歩いても
それほどかからない距離のところに、
30年後の日本の超高齢化社会の姿を思わせるまちができていた。
でも、そのことを知る人はあまりにも少ない。

寿町でのアートプロジェクトは08年から始まっていて、
関わる人やアーティストのつながりから、
人が人を呼んで活動が続いている。
幸田千依が最初に参加した「寿合宿」というプログラムでは、
5人のアーティストが春と秋、2回に分けてドヤに滞在した。
春の合宿は、作品制作に向けての準備期間。
寿町のことを知り、考えるための10日間だった。
寿町の住人たちを支援する活動を長年続けている人や、
寿町で新しいチャレンジをしている人たちに講座を開いてもらい、
このまちで何が起こっているのかを学び、
何ができるのかを考えた。

寿町のおじさんたちは、なぜ寿町にいるの。
どうしてみんなひとりぼっちなの。
どうして働かないでお酒ばっかり飲んでいるの。
どうして一日中何もしないの。
どうしてここから出て行かないの。
どうして故郷に帰らないの。
どうして、ときどき悲しい顔をするの。
どうして、ときどき怒っているの。

生活保護を受けている人は、
自分でもっと努力すべきではないのか。
そう思う人もいるかもしれない。
では、同じような状況の人たちが6500人、しかも全国から、
この小さなまちに集まってきている事実をどう考える?

彼らが寿町に集まってくるのには理由がある。
横浜市が70年代以降、住所を持たない人でも、
ドヤにいればそこを居所とみなして生活保護を支給する
「居宅保護」の制度を採用しているからだ。
すべてを失った人にとっては最後の逃げ場所なのである。

住む家がなく、身寄りもない人、
家族と一緒に暮らすことができない理由がある人、
アルコール依存症などが原因で
元居たコミュニティを追われてしまった人……。
そうして社会的に排除されて前途を失った人たちが
わずかな光を求めて寿町にたどり着く。
ここでなら、なんとか生きていけるかもしれないと。
それが最後、出ようと思っても出られずに、
このまちが終の棲家となる場合も多い。
実際、毎年500人ほどがここで亡くなっていくのに
まちの人口は約6500人であまり大きな変動がないという。
つまり、500人が亡くなって、
また別の500人が選択の余地なくここにやって来る。
そんなことが毎年繰り返されているのだ。

「おじさんたちは、まるで野良猫みたいに生きてる」
と千依は言う。ひとりぼっちで、おずおずと、
日なたを探し歩いて、でもつねに警戒しながら、
人とは一定の距離をおいて懐かない。
そして、ひっそりと死んでいく、野良猫のよう。

でも、炊き出し、パトロール、医療・介護支援、
アルコール依存症者のデイケア施設など、
寿町内で彼らを支える活動を行う地域団体は30以上。
なかでも年末年始、行政機関の窓口が閉鎖される期間に
野宿者などの支援を行う「寿越冬闘争」は
40年近くも継続して行われている。
自治会も70年代に設立された。
あらゆる社会問題が密集した寿町には、
根を張り力を尽くして支援を続ける人たちがいて、
少しでも安心して暮らすことのできる
温かいまちをつくろうとしている。
たとえば、地区外からたくさんのゴミが
不法投棄されてしまうのを防ぐため、
路上のちょっとした空間にプランターを置き、
花を育てる運動をしている人がいる。
そういう本当に地道でやさしい活動は、
彼らの心をちょっとずつ溶かしていくに違いない。
きっと伝わるに違いない。

寿町は、千依がそれまで滞在したことのある土地と
あきらかに違っている。
目に見えるところにも見えないところにも、
理解しなければいけないことが山ほどある。
それでも、人と人が寄り集まって生きているのは同じ。
人と関わることがまちを理解する糸口になるであろうことも、
きっと、同じだ。