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連載

PRIME KOFU vol.1
なぜ、地元山梨で
建築の仕事をするのか。
震災復興から学んだこと

リノベのススメ
vol.146

posted:2017.4.26  from:山梨県甲府市  genre:活性化と創生 / アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  地方都市には数多く、使われなくなった家や店があって、
そうした建物をカスタマイズして、なにかを始める人々がいます。
4つの都市から週替わりでお届けする、リノベーションの可能性。

writer profile

TAKAOMI KOIBUCHI

鯉淵崇臣

山梨県生まれ。2014年に地元である山梨に設計活動の拠点を構える。新築やリノベーションという枠にとらわれず、地方が抱える問題に建築家がどう向き合い、なにができるのかを模索中。現在、PRIME KOFUを主宰しながら、地元の不動産屋、工務店、企画制作事務所とともに「ゆたかな不動産」という共同企業体を立ち上げ、空き家空きビルの紹介や活用提案、設計施工をワンストップで行うサービスを展開中。
http://www.prime-lab.com/

『リノベのススメ』執筆陣はこちら。週替わりで担当していただきます!

2014年に地元である山梨に設計活動の拠点を構え、
現在、建築デザイン事務所〈PRIME KOFU〉を主宰しています。

地元山梨に帰るつもりもなく、建築家として大都会で仕事をしたい。
そんな誰しもが思うあこがれにつき動かされながら、日本の大学、海外の大学院で建築を学び、
都内の設計事務所で建築と向き合ってきた日々。そんな僕が、なぜ3年前に空き家率No.1、
県庁所在地のある市町村で人口が最も少ない山梨にUターンしたのか。

「まちのリノベーション」をテーマに、山梨で建築を生業とすることのリアルな日常を
少しでもこの場でお伝えできればと思います。
第1回目は、山梨に戻ったきっかけについての話。

オランダで学んだ建築のこと

いわゆるスター建築家像にあこがれていた僕にとって、
建築に対する向き合い方に新たな視点を与えてくれたのは海外の建築教育でした。
僕が通った大学院は、オランダにある〈Berlage Institute〉(現Berlage)というところで、
世界中の企業や行政からプロジェクトを依頼され、
リサーチから提案までを行う教育機関でした。

扱うテーマもさまざまで、僕自身は、
パリの移民問題や人種差別などに向き合うプロジェクトなどに携わっており、
深刻な社会問題に対して、建築にはなにが可能か?
ということを試行錯誤する2年間でした。当時の日本の建築教育は、
建築のデザイン性について追求していく傾向が強かったなかで、
こういった教育現場に身を置いたことは、ある種ショッキングでもあると同時に、
建築の可能性や視野が広がった貴重な時間でした。

berlage instituteのスタジオ。各自、デスクが割り当てられ連日作業を行っている。

ユニットミーティング後の様子。

帰国してすぐに経験した大震災

社会に鋭くメスを入れ、建築を通して課題解決をしていこうという
海外の姿勢にいたく心を動かされつつも、いろいろなご縁やタイミングもあって帰国後、
東京の設計事務所で働くことになりました。
そして、帰国後わずか3か月、東日本大震災を経験することになります。

津波による建物の倒壊や見通しのつかない原発処理問題など
東北の状況が連日メディアによって伝えられ、
いたたまれない気持ちと先行きのない不安に押しつぶされそうになっていたことを
今でも覚えています。震災以降、建築に携わる身として、
この現状にどう向き合うべきか真剣に考える毎日。
半年が過ぎる頃、事務所のスタッフや他設計事務所の方、
デザイナー、大学生などと一緒に福島へ震災復興のため行くことを決めました。

被災地であり限界集落という二重性

まずはいくつかの仮設住宅に出向き、被災した方々のお話をうかがっていたのですが、
訪問した仮設住宅の多くは僻地に建設されており、
閉ざされた環境の中で生活を送らざるをえない被災者の方々がほとんどでした。
そんな状況の中でも、復興に向けて一致団結して
支えあっている被災者の方々が多く、逆に僕らが励まされている気がしたほどです。

その道中、たまたま知り合った現地のNPOの方から、
福島県いわき市にある空き家を仮設住宅に住む避難民や近隣住民の交流拠点として
改修してほしいというご相談をいただきました。

現地調査時の様子。

その空き家がある地域は、
もともと農作業と自営のお店などをされていた方々が多かったのですが、
被災する以前から限界集落という中山間地特有の問題を抱えており、
著しい過疎化に追い打ちをかけるように、
震災による原発の風評被害によって農作業もお店も続けられない、
そんな二重の課題に直面していました。

2階部分の連間。

そこで、僕らは仮設住宅に住む方々が、定期的に訪れながら地域住民と接し、
少しでもリラックスしていただける場所、さらに、周辺住民の方々を雇用することで、
単なる空き家再生に留まることなく、
限界集落に経済的な活動を少しずつ取り戻すことができるような、
応急的かつ中長期的な「まちのリノベーション」を提案させていただきました。

イメージパース。さまざまな内部、外部が連続した空間をイメージ。

建物自体のデザインは、年代を経て増築されており、
木造2階建て、木造平屋、鉄骨造平屋、中庭など異なった個性がつながった空間だったため、
その個性を最大限に生かすことと、最初から過度な内装デザインを施すのではなく、
徐々に地元住民の方々が自分たちで手を加えていけるような
余白のある空間にしようと努めました。

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東京から福島へと通う日々

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解体の様子。

地元の方たちとの対話と信頼関係

2012年の年始から具体的な設計や打ち合わせを重ね、6月から12月の約6か月間、
金曜日に通常業務を終え、そのままいわき市の現場へ直行し、
日曜の夜まで現場作業をするという日々が続きました。
都内からボランティアで協力してくれた社会人や学生は
述べ30名くらいにのぼったと思います。

作業後は現場で雑魚寝状態。

裏庭にある竹藪でお昼ごはん。

その間、地元の人や近所の方にお話をうかがう機会が多くありましたが、
最初は少し距離のある対応だった方々も、回数を重ねるにつれ、
笑顔で受け入れてくれるようになってきました。
直売所のオバちゃんたちは野菜を買い出しに行くたびに、お茶を入れ、
地域の歴史や生活様式などを教えてくれました。
わざわざ現場に差し入れをもってきてくださる方やお手伝いに来てくれる方、
材料提供をしていただける製材所の方々もいらっしゃいました。

外壁の補修をするDIY女子。

地元の大工さんたちも助っ人参加。

一旦、12月に建物自体は所有者であるNPOに引き渡しを終えたのですが、
その後も地元の方々がいろいろと手を加え、
建物自体はどんどんカスタマイズされていきました。そんな地元の方々のご協力もあり、
この施設は2013年3月に無事オープンすることができました。

2階部分を一部吹き抜けにすることで、天井の高い土間空間へ。

1階は、扉を介して奥に部屋が続く。

鉄骨のトラス梁を生かした作業スペース。

最初は、NPOが経営するそば屋をメインとして稼働し始めましたが、
徐々にそば打ち体験や子どもたちへの絵本の読み聞かせなども行う
複合施設へと生まれ変わりました。福島県からは、過疎地の緊急雇用対策として、
人件費などの補助もしていただき、4年経った今も施設は稼働しているようです。

僕らが震災復興として現地と関わったのは約1年ほどでしたが、地方というのは、
しっかりその場に腰を据え、顔を突き合わせてコミュニケーションをとらなければ、
なかなか受け入れてもらえないということ、そして、信頼関係を築くことができれば、
温かく迎えられ、とても心強い協力者になっていただけるということを実感した、
とても貴重な経験だったと思っています。

2階部分は事務スペースに。

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日本が抱える問題は地方にある

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山梨へ帰ることを決意

このプロジェクトに関わる以前は、山梨は東京からも近いから、
東京に拠点を構えれば地元である山梨の仕事はいっぱい入ってくるだろうと
安易に考えていました。しかし、地方でのコミュニケーションや信頼関係の築き方など、
震災復興に携わり実感として経験したことで、その考えは180度変わりました。

山梨に拠点を構え、しっかりと関係性を築かなければ、地方ではやっていけない。
極端に言えば、東京はわかりやすいほど実力主義で、山梨に拠点があろうと、
いい仕事をしていれば仕事をいただけるチャンスはいくらでもあります。

さらに、過疎化や高齢化、空き家問題など、
今の日本が抱える都市農村問題の最先端は地方にあり、
山梨はその最たる場所のひとつだと思います。
海外で深刻な問題に対峙して建築と向き合っていた僕にとっては、
とても腑に落ちる結論だと思いました。

そんな決意と新たな門出への期待をもとに、
3年前の2014年4月、僕は山梨に戻ってきました。

次回は、山梨に戻ったはいいが仕事がない! 地方で独立することの難しさと、
最初のプロジェクトができあがるまでのリアルなお話をしようと思います。

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