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連載

自然のままの完全放牧で酪農を営む
熊本〈玉名牧場〉矢野希実さん

PEOPLE
vol.035

posted:2016.1.20  from:熊本県玉名市  genre:食・グルメ

〈 この連載・企画は… 〉  ローカルにはさまざまな人がいます。地域でユニークな活動をしている人。
地元の人気者。新しい働きかたや暮らしかたを編み出した人。そんな人々に会いにいきます。

writer profile

Yoko Yamauchi

山内陽子

やまうち・ようこ●企画と文章。熊本生まれ、熊本育ち、ちょっと放浪、熊本在住。地元を中心に、広告・広報の企画を手がけています。おいしいものが大好きで、お米、お水、お魚、お野菜、いろんなおいしいものにあふれている熊本から離れられません。

photographer

Koji Kinoshita

木下幸二

きのした・こうじ●熊本県出身・在住。肥後ちゃぼをこよなく愛し、撮影では飽き足らず肥後ちゃぼを飼っている鶏カメラマン。ちなみに肥後ちゃぼは熊本独自のちゃぼ、鶏の一種で主に観賞用に楽しまれていて、天然記念物にも指定されている。
http://www.kinoshita-photostudio.com

食べるもので、からだはつくられる

収容人数約5万人規模の施設が3個ほど、
すっぽりと収まるほどの広大な牧草地に、30頭足らずの乳牛たち。
のんびりと草を食み、おなかいっぱいになったら休んで
時間がたったらまた別の場所に移動して草を食む。
そうやって1日のほとんどを食べるために牧草地で過ごしている。
特別なものは、なんにもない。そんな牛たちの日常のなかに
食べること、生きることの本質を見いだすことができる。
見いだす、というよりも、なんとなく感じるといったほうがしっくりくるかもしれない。
これほどの広大な牧草地なのだから、もう少し乳牛の数を増やさないと
もったいないのでは、とつい思ってしまうのだが、
玉名牧場の牧場主である矢野希実さんは、
「完全な放牧で乳牛を育てるには、これくらいの広さに、
これくらいの頭数がちょうどいいバランスなのです」と語る。

東京ドーム3個分の敷地。乳牛たちはこの広大な牧草地を毎日移動しながら食事をしている。

玉名牧場があるのは、熊本県の北部・玉名市三ツ川。
九州新幹線の新玉名駅から、車で20分ほどで行くことができる。
地図上で見ると、非常に便利な場所にあるように見えるが
玉名牧場は、標高200メートルの山頂にある。
車の離合も困難なみかん畑のあいだにある小さな道を通りながら
手づくりで要所要所に設けられた看板を頼りに車を走らせる。
途中、「本当にたどり着くのか……」と不安な気持ちに何度か襲われるが、
突然目の前がパッと開けて、牧場が現れる。
この視界がパッと開ける感覚が、玉名牧場という場所を
とても印象深いものにしているのかもしれない。

玉名牧場では、放牧して育てている乳牛の乳を搾り、
その牛乳をもとにナチュラルチーズを加工している。
現在は5種類のチーズをはじめ、牛乳や、自然栽培の米や野菜、
卵の販売で牧場を運営している。
牧場のことや、食に関心をもつ一般の見学者をはじめ、
研修や視察目的で訪れる人などの受け入れを行い、
最近では、その数も増えてきたという。

玉名牧場の主力商品、ナチュラルチーズ5種。ホームページでの販売も行っている。

この見学ツアー、牧場内を見てまわるだけではなく
これまでの農業、酪農の経験をもとにした
矢野さんの食に関する“こわい話”がもれなくついてくる。
“こわい話”とは、受けとる側の問題ではあるのだが、
正しい食のあり方を、矢野さん独特の調子で語られる、だけのこと。
それを聞いているだけで、案内の最後のほうには
自分のこれまでの食生活を激しく反省することになる。

「食は、すべての根源になるもの。病気のことも、人間関係にも、
いろんなことに深く関わってくる、生きていくうえで大事なこと。
正しい食のあり方に変えるためには
ひとりひとりの心がけや行動、意識を変えるしかない。
そのことを気づける場でありたいと思っています。
見学者と話をしていると、確実に生活者の意識が変わってきたことを
肌感覚で感じられます」と、矢野さん。
これまで、数回ほど矢野さんの話を聞いているのだが、
毎回バージョンアップされている。

自然農法で育てられた野菜。実はこの野菜、約2年間冷蔵庫で放置していたもの。質のいい野菜は、放置していると腐れるのではなく、枯れていく、という。

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玉名牧場の指針となるもの

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指針は、日本ならではの暮らし方

矢野さんが牧場を開くとき、平坦な土地ではなく
標高200メートルの山頂を選んだのには理由がある。
国土が狭く、山地が多い日本ならではの酪農モデルにしたいという思いがあったからだ。
そもそも、矢野さんは酪農がしたいから、牧場を開いたわけではないようだ。
食との正しい向き合い方、暮らし方を実現していくと
こういうかたちが一番しっくりときたという。
その根本にあるのは、幼少期に体験した里山の田舎暮らしだ。

「玉名牧場を開くときに、指針としたことがあります。
それは、私のじいちゃん、ばあちゃんの暮らしです。
畜産業を営みながら、米や野菜などを多品種、自分たちが食べる分を栽培していました。
さらに、そこには放し飼いのニワトリがいて、飼っている犬や猫が庭先にいる。
いまではあまり見られなくなりましたが、ひと昔前までは、
そんな日本の里山の暮らしが当たり前に見られていたと思います。
少なくとも、私が子どもの頃にはありました。
その里山暮らしのなかにこそ、私たちが大事にしていくべき暮らし方のヒントが
たくさんあるのだと思います」

矢野さんが指針とする、かつて日本にあった里山の暮らし。
そこには、人と家畜、そしてその中心にある自然が豊かに共生している。
卵を産むニワトリ、ネズミや蛇やモグラを駆除してくれる猫、
そして、きつね、たぬき、イタチ、野犬などから家畜を守る犬。
そこにいるすべてが、なんらかの役割を担っている。
いま、玉名牧場では、その里山の暮らしがしっかりと受け継がれている。

玉名牧場の見習い番犬「くうた」。まだまだ幼いのでやんちゃ盛りだが、牧場にとって欠かせない存在。

玉名牧場の猫。こんなかわいい顔しているのに、ネズミやモグラをガブッといくときは野生の顔。(撮影:Rumi Yamaguchi)

子牛の放牧場では、ニワトリを放し飼い。縄張り争いをするでもなく、自然に共生する微笑ましい姿が見られる。

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なぜ農業を始めたのか?

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玉名牧場を開く前、矢野さんは農業に従事していたわけではなく
製鉄所の設備などを設計するプラントエンジニアだった。
子どもの頃からアレルギー体質で、食事に気を配る生活をしていたものの
デスクワークでストレスを感じたり、生活が乱れてくると、
すぐに体が敏感に反応していた。
そこで目を向けたのが、食を根本から見直す、ということだった。
働きながら小さな畑や水田を借り、米、野菜を育ててみた。
肥料を与えず、農薬を使わない自然農法で育てた米、野菜は
矢野さんの体にしっくりと馴染み、体調が良くなるのを実感した。
小さな水田と畑、それが、玉名牧場の第一歩だった。

農業を生業にすることを心に決め、里山の暮らしを実現できる場所を
探していた矢野さんは、この場所に出会う。
2000年に入植した当時のこの場所は、うっそうと生い茂る雑木林のなかにある
20年以上も使われていなかった牧場跡。
まさに“ボロボロ”な牛舎が目の前にあるだけだった。
「ジャングル、という表現がぴったりの場所でしたね。
その光景を眺めながら本当にやれるのか、どうか、と自問自答しました。
だけど、前に進むしかなかった」と、矢野さんは当時を振り返る。

とりあえず暮らせる程度の小さな小屋を建て、そのまわりでニワトリを放し飼い、
畑を耕し、自然栽培で野菜を育て始めた。
田んぼを借りて米をつくるようになり、入植してしばらくは
アルバイトや派遣社員として働きながら生計をたてた。
農業収入だけで、どうにか生活ができるようになったのは3、4年経った頃だった。
そのなかで、軌道にのせることが一番難しかったのが酪農だったという。

玉名牧場の乳牛には、一頭一頭、名前がつけられている。矢野さんは顔ではなくおしりを見るだけで名前がわかるそうだ。(撮影:Yasuo Uozumi)

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妊婦が牧場で安産祈願…!?

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自然のまま、ありのまま

矢野さんがめざした酪農は、完全な放牧によるもの。
穀物飼料・配合飼料はいっさい与えず、牧草のみで育てることにこだわった。
「まず、牛がその環境に馴染むことが、難しかった。
牛舎で飼料を与えられ、じっと1日を過ごすことが当たり前になってきた時代、
牛もその本能を忘れていたのですかね。
15年前に牧場に連れてきた牛は、ことごとくダメでした。
唯一、アイちゃんが環境に馴染み、16年経ったいまでも現役でお産して、
ミルクを出してくれています」

アイちゃん、というのは、玉名牧場の主のような存在で、
16年間、矢野さんと苦楽をともにしてきたジャージー牛だ。
人間の年齢で換算すると80歳は優に超えている年齢であるにもかかわらず
つい最近、14回目のお産を終えたばかり。
玉名牧場の運営を支えるミルクを、現役で提供し続けているツワモノだ。
高齢出産を続けるアイちゃんのことは玉名牧場のウェブサイトで紹介され、
評判が評判を呼んで、妊婦さんが見学に来るようになった。
アイちゃんのお腹をさわって、安産祈願する人が増えたという。

16年間、苦楽をともにした矢野さんとアイちゃん。この日のアイちゃんは、14回目の出産を終えたばかり。

16年間連れ添ったアイちゃんの14回目の出産のとき、
矢野さんは初めて出産に立ち合うことができた。
立ち合った、というよりも、目撃した、というほうがいいかもしれない。
というのも、完全放牧で日頃から適度な運動をしている牛たちの出産は、
人知れずにスルッと産んで、気づいたら子牛が元気に歩き回っていることが多いという。
それが、本来の牛の出産なのだ。
私たちが牛の出産といえばイメージする、子牛の足を人がひっぱって
出産を介助するシーンは、ここ玉名牧場ではまったく見られない。
牛も、人間も、自然に逆らうことなく自然のまま、ありのままを受け入れることが、
本来の姿だと、腑に落ちてくる。

出産直前のアイちゃんの様子を撮影したもの。パンパンにふくれたお腹に、アイちゃんのこの余裕の表情。貫禄さえも感じる。(撮影:Rumi Yamaguchi)

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正しい食のあり方を実践するには

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玉名牧場では、田んぼも、畑も、酪農も、
すべて自然のまま、ありのままを大切にしている。
ただ、正しい食のあり方、と頭では理解したとしても、
工業化、大量生産の食や農業のあり方に慣れている現代人の生活から、
いきなりシフトするのは無理な話。

「いつも買っているお弁当のかわりに、自分でおにぎりを握って持っていく。
ペットボトルのお茶から家で淹れてきたお茶を水筒に入れて持参しておく。
それだけでも、いいと思います。
それと、野菜やお肉でも、食材を選ぶ目を持つこと。
どこでどう育ったものか、それがどういいのか、悪いのか
判断できるようになるのが一番ですが、
まずは食べ物自体が健康で、質がいいものであるかどうか。
それを見極める力を、ひとりひとりがつけることでずいぶんと変わると思います。
ただ質のいい食材を揃えるのは経済的にも物理的にも大変なので、
最初はなるべくできあいのものは使わずに、材料できちんと料理する、
それだけでも全然違います」と、矢野さん。

玉名牧場で生産される乳製品やお野菜、お肉、卵は
熊本県内の多くのレストランに卸されている。
レストランのシェフが実際に食材に触れて、使って、お客様に提供して、
玉名牧場の食材の良さを伝えていく。
ゆるやかではあるが、玉名牧場の食のあり方は地元で広がりつつある。

手にしているのは、乳牛のうんこ。牧草しか食べていない牛は、まったく臭わないうえに、1日も放置すれば手で持てるほどにパサパサになる。

臭わないけれど、食べられません!

profile

KIMINORI YANO 
矢野希実

1969年北九州市生まれ。2000年に農業の傍ら完全放牧でジャージー牛を飼育する玉名牧場を開く。工場などの大型施設を設計するプラントエンジニアの経験を生かし、牧場内に設置したチーズ工場は自分で設計。現在では、5種のチーズ加工・販売を中心に牧場を運営している。

information

map

玉名牧場

住所:熊本県玉名市三ツ川1024-2

TEL:0968-74-9248

*牧場見学の場合は事前に申込が必要

http://www.tamanabokujo.jp/

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