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沖縄県那覇市

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NAHA, OKINAWA Interview 01

自分にできることをするために、
ザンビアへと渡ったんです。

高良初子さんがザンビアに渡ったのは、
もう30年以上前のこと。
当然、と言うべきか、
周囲に頼る日本人は誰もいなかった。
アフリカ南部に位置する、
自然豊かなザンビアで、
高良さんは、いかにして
新たな居場所を獲得していったのか。

そもそも、どうしてザンビアに?
誰の人生にも、
不思議な物語はあるけれど、
沖縄からザンビアに渡って
人生を築いた女性の話は、
奇跡のようにさえ感じられる。
ザンビアと、そして沖縄の物語。

——まず、最初の質問です。
なぜザンビアに渡ったのでしょうか?

そこに人々がいたから、と答えるのが
一番正しいように思います。
私は青山学院大学を出た後に、
学位を取るためイギリスの
マンチェスター大学に
留学していたんです。
プラクティカルな英語を教えるための
学校でしたが、そこには世界各国から
留学生が集まっていました。
ザンビアからも2人、
先生がいらっしゃっていました。
盲学校と聾唖学校を
運営されていたんです。
仲良くなった私に
「ザンビアにいらっしゃいよ」
と声をかけてくださって、
まずは2週間、ステイしたのが、
きっかけでした。

——2週間の滞在が、
人生を変えることに
なったのでしょうか? 
周囲の反応はいかがでしたか?

1977年のことです。
2週間ザンビアに滞在して、
盲学校、聾唖学校を訪ねて、
沖縄に帰ってきました。
私にできることは何だろうと
学費や生活用品を持って
すぐにまたザンビアへ。
日本の赤十字を動かして、
支援を要請して、
日本航空やザンビアのエアラインにも
協力を仰いで、
物資を送ったりもしましたね。
自分にできることを、
懸命にやったんです。
当時はザンビアに行くと言ったら、
ライオンに食べられるんじゃないか?
って言われるくらい(笑)。
今でも、もしかしたら
同じ感覚なのかもしれませんね。
遠い国のできごとでしょう。
でも、そこには、人々がいたんです。
だから、行ったんです。

——ザンビアに移り住んでからは、
どんな生活をしているんですか?

盲学校、聾唖学校は、
首都から400km以上も離れた場所に
あったんですね。ですから、
首都に移って文化研究者を
支援する活動を続けています。
教育、福祉、医学、
あらゆる分野ですね。
私は、その盲学校の先生と
結婚したんです。
自分の子どもは作りませんでしたが、
多くの子どもたちを育てました。
今回、沖縄に一緒に来てくれた
ふたりのザンビアの娘は、
医者とジャーナリストをしています。
ザンビアの女の子は、可愛くて、
オシャレでしょ? 
主人は亡くなりましたが、
ザンビアには
多くの娘や息子たちがいますね。
とても幸せなこと。
ザンビアの初代大統領から、
直筆で感謝のお手紙を
いただいたことがありますよ。
ザンビアのために、
少しは役に立ったのかもしれません。
私は昭和ヒト桁の生まれですが、
今でも車の運転をして、
時速100kmのスピードで
走っていますよ。広大な大地を。

——沖縄に対しては、どんな想いを
抱いていらっしゃいますか?

沖縄は、私のふるさとですから。
当時は、母にはもう二度と
帰ってこないんじゃないかと
心配されました。
でも、ふるさとです。
ザンビアと沖縄は人間のあたたかみが
似ているかもしれませんね。
同じ人間ですから、原点は一緒です。
人間のことは、
なかなか分からないですよ(笑)、
一生かかっても。
人生には何があるか分からない。
私もザンビアで
暮らすようになるなんて、by accident、
本当に偶然のことですから。
ぜひ、若い方々にザンビアに
来ていただきたい。アフリカは、
未来の大陸です。沖縄のように
じっとりともしてないですし(笑)、
楽園のようなところですから。